暖かい日と寒い日が交互に訪れるような不安定な日々も過ぎ、すっかり秋色に染まった今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。僕はといえば今月頭から腰痛に悩まされ、シップとコルセットで騙し騙し過ごしております。
これまではてなダイアリーでちょいちょい記事を書いておりましたが、はてなブログに招待して頂きましたので、これ以降はこちらのはてなブログに記事を投稿してまいります。 装いも新たに、とはいえ書く内容はこれまでと代わり映えもせず似たようなお話ばかりになるかと思いますが、よろしくお願いします。
事の経緯
さて、ここのところ Twitter 界隈を賑わせているライブブの件をうけて、同じ事業者の立場として感じたことを今日はお話したいと思います。
まず、ざっくりとした経緯と致しましては、ライブブのコンテンツとして動画を配信していた「iPhone アプリ開発日記」というコンテンツ内で、書籍「10日でおぼえる iPhone アプリ開発入門教室」という書籍に掲載されているサンプルコードを著作権者の許諾なしに掲載されました。
そもそもライブブというウェブサイトは株式会社ソラノートという営利企業が運営しており、通念としては営利目的のウェブサイトであると考えられます。そのような状況において著作権者の許諾なしに著作物を商用利用してしまうという、客観的に見れば著作権法違反に該当するのではないかと疑われる行動が今回の騒動の根幹にあります。
件の結論に関しましては当事者同士の話合いが進められており、第三者が口を挟むような話ではございませんので特に触れませんが、ライブブ側が発表した謝罪について、実に多くの方が「これは謝罪ではない」と否定的な見解を示している点について、僕なりの考えを述べたいと思います。
謝罪だと感じられない理由
まず、なぜ謝罪だと感じられないのかという点ですが、これは「「iPhoneアプリ開発日記」コンテンツ削除のお知らせと著作権侵害に関するお詫び」と題された記事内に掲載された以下の一文が原因だと思われます。
「iPhoneアプリ開発日記」は、プログラミング未経験者のそらのが、言語の勉強から始め、1つのiPhoneアプリを作成し、AppStoreに申請するまでをライブ配信を通して視聴者さまと一緒に進めていくことを番組のコンセプトに据えておりました。 また、それらのライブ配信の内容が、今後iPhoneアプリ開発を1から始める方々の何らかのお役にたてればと、アーカイブとして記録し続けておりました。
読んでいただければわかるとおり、株式会社ソラノートが「iPhone アプリ開発日記」というコンテンツを公開するにあたってのメインターゲットと、メインターゲットがコンテンツを利用する動機を明らかにしているに過ぎません。 言うなれば飲食店が「お腹が空く人がいるかと思って飲食物を提供してきました」と述べていることと同じ道理です。これには社会的意義も確かにございますが、それよりもむしろ事業者として感じた需要であり、その需要に対して供給したのが「iPhone アプリ開発日記」であるという認識だと考えるのが妥当だと思われます。
このような説明は一見して筋が通っていますし、事業者の意図を説明するという振る舞いはある意味清廉潔白な印象を与えますが、件の謝罪文では逆効果となっています。なぜでしょうか。 それは、需要を盾に行為の正当性を訴えているからです。
飲食店の例示で進めるならば「人の畑から無断で拝借した玉ねぎを使ったのは、お腹が減っている人がいると感じたから」という謝罪文を掲載してしまったと言えるでしょう。 真に他者のためを思った行為であるならば、いざ自身の立場が悪くなったときに謝罪文で他者の存在に起因した行為であると仄めかす事は考えにくいです。何故ならば、そのような行為は自由意志であり、誰かに強制されているわけでは無いからです。
消費者への責任転嫁
今回の謝罪文で謝罪の意が感じられないのは、事業者側の商業行為に起因した問題の原因が「そこに需要があるから」と宣言してしまったことにあると僕は考えています。 「iPhone アプリ開発日記」というコンテンツのもつ社会的意義自体は素晴らしいものだと思います。技術的教育を動画という直感的なアプローチを通じて行うわけですから、単なる消費ではない生産的な取り組みとして高く評価出来ると感じています。 しかしながら、事の発端がコンテンツの受給者にあると謝罪文で宣言してしまうのは、事業者として責任転嫁以外の何者でもありません。多くの人が謝罪文から謝意を感じられないのはこの一点に尽きると、僕は思います。
どうすべきか
事業者に限らず、社会に生きる僕らにとって最も重要な価値観は敬意です。例え社会的意義の大きな事業だとしても、消費者の存在無くして利益を得る事は叶いません。意義が社会を作るのではなく、社会が意義を生むのです。
このように、他者が自分にとってかけがえのない存在である事を社会という仕組みそのものが担保している事からもわかるとおり、他者への敬意無くして社会は存在しません。
今回はライブブの謝罪を話の中心に据えましたが、ソーシャルメディアやソーシャルブックマークなどで散見される、ライブブの行為を半ば馬鹿にしたような発言も同様に敬意のない行為であると僕は感じています。相手が敬意のない行為に走ったからと言って、それに追従する論理的理由はありません。誰かが敬意のない行為に走るならば、代わりに一層の敬意を払う方が、同じ社会に生きる人間としての責務を果たしていると言えるのではないでしょうか。
もちろん、僕自身頭にきていたり、腹が立っているときは思わず人を馬鹿にしてしまうことがあります。しかし、そのような行為を自省し、次の機会に活かす事が出来るだけの許容を僕らの社会は備えています。つまり、何かがダメなのではなく、今よりも良い方法だけが存在するのです。
この点を踏まえ、ライブブもライブブの謝罪を馬鹿にしてしまった人も、今回の行いが次の機会に活かせられるよう願い、記事を終わります。